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うぐいすの鳴き方練習
       「うぐいすの鳴き方練習」


 先日の朝、あまりのことに瞑想を中断してしまいました。うぐいすの声に驚かされたのです。


 うん?!そうだとしたらそれは瞑想とは言えない! 

 まあ、そうおっしゃらずに。



 このところ、通常ではあり得ない変化が次々と周りで起こります。恐らくいまは誰の人生にも起きていることなのでしょう。。。。。と思いますが、このうぐいすの声も、奇跡のひとつでした。

 我が家は、海の近くにして、山間とでもいうのでしょうか。西と東の尾根と尾根が手の指のように南の海に開けた、股近くに建っています。庭に立てば、南に水平線がわずかに見え、三方はぐるりと尾根が迫ってきます。それもかなりの急斜面で鬱蒼と木が生え、壁のようです。

 今まで三年間を過ごした静岡の山奥と同じように、緑の稜線を仰ぎ見る生活をしています。という訳で山から海に移り住んでも、毎日小鳥の声を楽しんでいます。静岡の山奥では観光客に、拡声器で小鳥の声を流しているのかと訊ねられる程、すり鉢状の村のなかは季節感も張りもある美声がいつも聞こえたものでした。

 そんな山奥ではない鎌倉の海辺で、更に多種多様の小鳥が姿を見せ、美しい声を聞かせてくれます。これには驚きました。空気もきれいとは言えず、100メートル下った海岸線には道路が走り、並行に江の電の線路も敷設さえているところです。それなのに、ときに名前も知らない渡り鳥が、わたしたちの散歩に加わってくれます。後になり先になりして付いてくるので、何の意図でこんなに親しげなのかと戸惑い、自分の感性の鈍さに立ちすくんだこともあります。

 ふたりで散歩しながら夢中で話していると、絶妙なタイミングで、賛同や、滅多には無いけれど揶揄の合いのてが入ってくるのが分かってからは、まわりの自然がわたしたちと繋がりを持っているのを確信するようになりました。。。。。遅ればせながら。

 そして、先の六月十五日。瞑想中にとんでもないうぐいすの声を聞くことになりました。

 どんなうぐいすも、それなりにうぐいすらしいリズムとメロディーを歌えるようになるには、練習をしているようです。個体によっても上手下手があるのかもしれません。しかしそれも、梅雨に入る頃になれば、どのうぐいすもそれなりに一丁前です。それなのに今回のは、はじめはか細く、そして小さく、下手な短い鳴き声が続きます。いつもなら瞑想中なので、注意をそちらに向けずやり過ごせるはずなのに、このうぐいすは段々に声に張りが出て、短いながら声の出し方が上手になっていきます。このあたりから、常でないものを感じて、うぐいすに気を取られはじめました。いつもなら疲れも見えて、一息入れて又練習がはじまるのですが、今回は上手にならないのに、声の張りは更に良くなり、響き渡り、強く力が漲っていくのが分かります。すごいな!!と思ったものです。自然界にもがんばり屋さんはいるのね。感心感心。

 しかし、戻ることはできないのだと悟りました。瞑想中の神経が全部そっちに向いてしまうまで、このうぐいすは泣き止まないのだとやっと分かったのです。

 はい、分かりました。あきらめないということですね。この何ヶ月、もしかしたら、この先は無いかもしれないと思い込んだわたしたちに、これでメッセージをとの計らいですね。はい、もう休んで下さい。ありがとうございました。

 このうぐいすが、その場所で上手にメロディーを奏でるまでにはいきませんでした。というより、わたしたちは聞くのも瞑想を続けるのも止めたのです。この微笑ましい神のなさり方に脱帽しました。

 お正月に会った方々が、ここにきて大幅に前進しています。大舞台に立って人生の流れを変えるのを目の当たりにしました。そうかと思うと、お正月の決意に活を入れたら、ここにきて次々に人を呼び込み、あっという間に自信満々と変化していく、それも見せられました。また、これ以上は問題を先送りにできないと、開き直ってなり振り構わずいどみ続ける人もいます。その人はここにきて、今まで感じたことの無い光明を感じています。

 岩手・宮城内陸地震が起きたのは、うぐいすの前日でした。その日の朝、誰もがいい知れぬ不安や落ち込みを経験したかもしれないと、感じました。災害に遭われた方々の痛みに寄り添い、このうぐいすの懸命さをメッセージに、わたしたちは自然と共生していることをもっと感覚で捉えても良いかもしれないと、心をよぎりました。

 「オズの魔法使い」のドロシーであるはずのわたしも、ときに萎え弱気になります。そんなわたしを、友人知人は一丸となってわたしに希望の持てる変化を見せてくれます。

 説教も無しに。

 この人たちの大変化は、まるで今までの態度に大鉈を振るって、ばっさり切り落とした程の変化です。前のてこでも動きそうにないあの態度はどうなってしまったのかと思う程、軽くさわやかで、そして強い。ああ、こんなに人は変われるんだと、感じ入っています。うぐいすのときと同じに、お腹の底からじわりと笑いがこみ上げるような、そんなヘンカでした。
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テーマ:夢に表れる心と身体と霊性の状態からその対処法を知る。 - ジャンル:心と身体

【2008/06/19 07:21 】
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薬師寺の聖観音さま
       「薬師寺の聖観音さま」

 昨日荒れ模様を幸いと,重い腰を上げて,上野に行ってきました。東京国立博物館・平成館で開催されている薬師寺展が8日迄になってしまったからです。

 早起きをして,ラッシュアワーの電車に揺られ,二時間経って外に出てみると、予想に反して、土砂降りの上野の森は傘で列を作っていました。開館前の季節を無視した寒さの中、互いの傘のしずくにも濡れながら,一体何人の方々が薬師寺の仏さまに思いを馳せて,ここまでやってきたのでしょう。頭の下がる思いがしました。

 日光・月光の両菩薩さまは一見とてもふくよかで,時間をかけて拝見して、やっと、修練の賜物が人の形になり、仏として現わされているのだなあと、感じ取った次第です。一瞬、メタボ?!とこの頃の日本人を見慣れたわたしは,失礼ながら,太り過ぎ!と思ってしまったのを、白状しなければなりません。前後左右どこからも拝見できたからこその勘違いです。

 聖観音さまも全身、前方からもそして後方からも、光背の無いお姿で拝見することができました。そうです。この光輪を外したお姿は今回はじめてとのこと。それで、人混みが堪え難いわたしたちも拝見したいとやってきました。あこがれの君にお目にかかって,夢は叶い、忘れ難い体験をいたしました。

 聖観音さまの背後に回って,両肩の降りた点を結んだ線の中心、首から背中にかけて岡を描くなだらかなカーブを、「慈悲の曲線」と呼ばせていただきたいほどの感動を受けました。
 そして、ゆっくり下へと目を移すと,肩より小降りの,(青年をモデルとイメージできる)腰を拝見したら,どうしてもその腰ではなく、その中心に、その中心の燃えたぎるエネルギーに、こちらの思いが引っ張られるのです。

 これを、いちいち理で確認するつもりはありませんが,わたしが感じた聖観音さまのお姿から,第一チャクラと第二チャクラの燃えたぎるエネルギーがまずあって,愛は表現されえるものだと、感じたのでした。この能動的な下半身のエネルギーの状態と,ハートチャクラの静かな深みあるエネルギーの状態。この感動体験を的確に表す言葉の持ち合わせが無いのが残念です。

 この仏さまを、形あるものにしてくださった方々の、お心の高尚さに,深々お礼を申し上げたい。わたしたちもこの思いを繋げられますように。
【2008/06/04 13:52 】
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